5月のメモ
2012.05.14
5月。相変わらず弛んでるが、時間を見てはきままに展示とか見て過ごす。GW中は都心のものは外して実家へ帰省。水戸では植物とかを縁側に座りながら眺めたり、カメラ持って接近したり、空とか見て過ごした。親父の趣味の紙飛行機とばしに付き合って、飛行機が1分くらい上空を飛んでるのをぼんやり眺めたりもした。
最近、例え話で出た「人間と風くらい違う」というフレーズが頭から離れない。



Gerda Steiner & Jörg Lenzlinger - Power Sources
http://arttowermito.or.jp/gallery/gallery02.html?id=115

小木曽瑞枝展「左見右見」
Hasu no hana CAFE

大友克洋GENGA展
http://www.otomo-gengaten.jp/
連休明けて、仕事で青森へ何日か行った。新幹線で3時間で行けると考えると近い。道中、制作中の映像の展開なんか考えつつ、さかしまを読む。妄想の中で旅をするバーチャル体験というか、まるでタンクの中で現実と非現実が混同された世界に気がつくと突入していたりするようなあたりが個人的には好みなのだが、面倒だと思うところもあって、そういうところを飛ばして読んでるからすごく早く読み終わりそうだ。だから本当の意味では全く味わってないかもしれない。それとなぜか読む度にコヤニスカッティの映像が浮かんでくるのはなぜなんだろう。どこが繋がっているのかさっぱり分からないが、こういうのは放っておくと後で繋がるから忘れることにする。
帰宅後から胃痛胸焼け。悩みやストレスではなく、確実に暴飲暴食が原因。糞。
今のアニメーションって数は増えたけどトラウマになるような作品がほぼ無いような気がする。さっきのコヤニスカッティもそうだけど、胸焼けしてくるようなというか、言葉以前もしくは言葉以後に続いてくるようなそんな作品にお目にかかる時が少ない。分かりやすさとか表現手法に目がいってしまって中身が薄いように思う。そういう作品は何年も後に見ると古いと思ってしまう。そうでない一部の作品は10年後に見ても新しさが見て取れる。
今はある種の欠如感のようなものをベースに作っている。
以下、最近撮った写真


最近、例え話で出た「人間と風くらい違う」というフレーズが頭から離れない。



Gerda Steiner & Jörg Lenzlinger - Power Sources
http://arttowermito.or.jp/gallery/gallery02.html?id=115

小木曽瑞枝展「左見右見」
Hasu no hana CAFE

大友克洋GENGA展
http://www.otomo-gengaten.jp/
連休明けて、仕事で青森へ何日か行った。新幹線で3時間で行けると考えると近い。道中、制作中の映像の展開なんか考えつつ、さかしまを読む。妄想の中で旅をするバーチャル体験というか、まるでタンクの中で現実と非現実が混同された世界に気がつくと突入していたりするようなあたりが個人的には好みなのだが、面倒だと思うところもあって、そういうところを飛ばして読んでるからすごく早く読み終わりそうだ。だから本当の意味では全く味わってないかもしれない。それとなぜか読む度にコヤニスカッティの映像が浮かんでくるのはなぜなんだろう。どこが繋がっているのかさっぱり分からないが、こういうのは放っておくと後で繋がるから忘れることにする。
帰宅後から胃痛胸焼け。悩みやストレスではなく、確実に暴飲暴食が原因。糞。
今のアニメーションって数は増えたけどトラウマになるような作品がほぼ無いような気がする。さっきのコヤニスカッティもそうだけど、胸焼けしてくるようなというか、言葉以前もしくは言葉以後に続いてくるようなそんな作品にお目にかかる時が少ない。分かりやすさとか表現手法に目がいってしまって中身が薄いように思う。そういう作品は何年も後に見ると古いと思ってしまう。そうでない一部の作品は10年後に見ても新しさが見て取れる。
今はある種の欠如感のようなものをベースに作っている。
以下、最近撮った写真


野蛮な4月
2012.04.30
4月は珍しく長かった気がする。先月行ったバリのゴムみたいに延ばされた時間がそのまま延長したのか、いや、ただぼーっとしてただけかもしれない。本は3冊読んで、展示上映はいくつ行ったかよく覚えてないが思い出そうとするとぽつぽつと思い出せるからけっこう行ったのかもしれない。
あんまり写真も撮らなかったし、じゃあ何してたのかと言えば、それまで作ってた短編を完全にぶっ壊して新しく絵をちょこちょこと描いていた。どうも考えることによる麻痺みたいな状態に陥っていたようで、別に起承転結なんて無くていいし、もともと好きじゃないし、周りに意味のあるものなんて無いくせに意味のあるものなんて作れるかとか考えながらガンモを3回くらいループで見たら気持ちよく吹っ切れてきた。
ちょうど始まった友達の苅谷の展示にもあやかって4月は野蛮な感じ。行儀わるく絵を描いて、これから動かしてみようかな。ちなみに苅谷の展示は良かったです。野獣のマスクを被ってトランスダンスする女、獣のワルツ。おすすめ。

野蛮な宴
4.21〜5.26
GALLERY TERRA TOKYO
〒135-0024
東京都江東区清澄1-3-2 丸八倉庫ビル6階
http://yellowvalleys.net/
以下、最近撮った写真。



あんまり写真も撮らなかったし、じゃあ何してたのかと言えば、それまで作ってた短編を完全にぶっ壊して新しく絵をちょこちょこと描いていた。どうも考えることによる麻痺みたいな状態に陥っていたようで、別に起承転結なんて無くていいし、もともと好きじゃないし、周りに意味のあるものなんて無いくせに意味のあるものなんて作れるかとか考えながらガンモを3回くらいループで見たら気持ちよく吹っ切れてきた。
ちょうど始まった友達の苅谷の展示にもあやかって4月は野蛮な感じ。行儀わるく絵を描いて、これから動かしてみようかな。ちなみに苅谷の展示は良かったです。野獣のマスクを被ってトランスダンスする女、獣のワルツ。おすすめ。

野蛮な宴
4.21〜5.26
GALLERY TERRA TOKYO
〒135-0024
東京都江東区清澄1-3-2 丸八倉庫ビル6階
http://yellowvalleys.net/
以下、最近撮った写真。



夢と写真
2012.04.09
眠りにつく前に布団に入って目を閉じて何やら考えたり回想したりしていると、眠りに入りかけに勝手に風景が変わったり、知った人が出て来たりすることがある。だが、その時目を覚ますとその風景も現れた人も全く知らないか、人であったというだけで形象も定かでないfigureのようなモノが頭に残る。その場で生きてその場で死なないと出てこない様な絵や形があるように、このfigureは夢を見て夢から覚めないと現れない。夢はそのほとんどが普段の生活の反映(意識されないものまで含む)で形作られると思うが、不思議な事にそれとの因果関係がよくわからないものが多い。
中でも明らかにこれらの写真が影響を及ぼしただろうという確信はあるが、その夢には写真の風景はおろか全く関係のない話で構成されていたりするものがある。そういう夢を見た時、原因となった(と思っている)写真を改めて見返すと、確かにこれは自分が撮った写真だが、それを写した場所や空気感などの撮影以前がごっそり脱落してしまって痕跡だけが残ったように思えてくる。そうなると決まって「いったいこれは何なのか」とわからなくなって不思議な遠近感だけが残る。



中でも明らかにこれらの写真が影響を及ぼしただろうという確信はあるが、その夢には写真の風景はおろか全く関係のない話で構成されていたりするものがある。そういう夢を見た時、原因となった(と思っている)写真を改めて見返すと、確かにこれは自分が撮った写真だが、それを写した場所や空気感などの撮影以前がごっそり脱落してしまって痕跡だけが残ったように思えてくる。そうなると決まって「いったいこれは何なのか」とわからなくなって不思議な遠近感だけが残る。



バリ泥旅行
2012.04.01
先月末に三年振りにバリ島へいってきた。バリ島は今回で三回目なのに個人的にはもっといっているような気がするのは、日本にいるときでもたまに考えているからかもしれない。ヨーロッパも勿論好ききだし、中でもドイツは思考が合うのか、気になるアーティストは大抵ドイツ人だったりする。だが、ヨーロッパで受ける衝撃と、熱帯地域で受ける衝撃はかなり異なる。何故こうも足を運ぶようなったかと言えば、初めて訪れたときの衝撃が忘れられないからかもしれない。あの時は、それまで無意識にセパレイトしていた境が簡単にブッ潰されて泥団子のように捏ねられてひとつにされてしまったかのような感覚だった。それからも、訪れる度に丸くされて帰ってくる。一週間で何かが出ていき、二週間目で何かが入ってきていい感じになってくる。夜はダラリとしながら延々と水みたいなビールを飲む。中沢新一氏の言葉を借りれば、西洋の神様はコンピュータのようにパッと世界を作り、こちらの神様は体ごと泥に浸かって捏ねるように世界を作ったというところか。とにかく忘れていた五感を気まぐれに思い出させてくれる場所だ。
今回は、むこうの正月にあたるニュピの前日夜に空港着したものの、ニュピ前日のオゴオゴという祭りのため道路が封鎖されているところが多々あり、滞在予定のウブドまで行きたくないと空港のタクシーに拒否されるという予想外のスタートだった。翌日のニュピは静寂の日で一日中外出できない日なので、是が非でもウブドまで行かなくてはならず、しぶしぶ二日分のタクシー代で手を打ってもらったが、通常1時間ちょいの道に約3時間半もかかり、到着するころには夜もふけていた。ニュピは一日空とか木とか見ながら過ごし、翌日から色々と寺院等をみて回った。ウブドは物価も上がり急速に観光地化してしまっていたが、少し離れればまだまだ自然と宗教が脈を打っている。といっても今回はガルンガンとクニンガンではないため、ニュピが終わってバリ人もどこかダランとしているようだった。っていつもダランとしているんだが。雨期が残っていたため何度か雨に降られたが、それでも強い日差しの中、陰影濃い景色を眺めつつ、映像のことなんかを考えつつ、水みたいなビールを延々と飲んだ一週間だった。





今回は、むこうの正月にあたるニュピの前日夜に空港着したものの、ニュピ前日のオゴオゴという祭りのため道路が封鎖されているところが多々あり、滞在予定のウブドまで行きたくないと空港のタクシーに拒否されるという予想外のスタートだった。翌日のニュピは静寂の日で一日中外出できない日なので、是が非でもウブドまで行かなくてはならず、しぶしぶ二日分のタクシー代で手を打ってもらったが、通常1時間ちょいの道に約3時間半もかかり、到着するころには夜もふけていた。ニュピは一日空とか木とか見ながら過ごし、翌日から色々と寺院等をみて回った。ウブドは物価も上がり急速に観光地化してしまっていたが、少し離れればまだまだ自然と宗教が脈を打っている。といっても今回はガルンガンとクニンガンではないため、ニュピが終わってバリ人もどこかダランとしているようだった。っていつもダランとしているんだが。雨期が残っていたため何度か雨に降られたが、それでも強い日差しの中、陰影濃い景色を眺めつつ、映像のことなんかを考えつつ、水みたいなビールを延々と飲んだ一週間だった。





三月中旬すぎて
2012.03.21
地元からの後輩でもあり友人の結婚式に出席するために帰省 。水戸はもう観梅シーズンで、庭にある小さい梅にも小粒の花がポツポツ咲いていた。今年は三月中旬にしては寒い日が続くが、たしか梅は日照時間で花が咲くと聞いたことがある(違うかもしれないが)。たしかに最近は日が長くなってきた。庭にある他の花々の中にも咲き始めているものがいくつかあり、そういう花も日照時間で季節の変化を知覚している種類のものなのかもしれない。 この時期の庭にはそんな予兆が密集しているような感覚を覚え、ほとんど止まっているのに限りなく流動しているような不思議な感覚に陥る。一方、東京の自宅で育てていたドングリは、先月末にいきなり根元からポッキリ折れてしまった。根腐れの可能性が考えられたが素人には正確なことは分からず、春の予兆も折れる予兆も感じ取れないまま鉢だけ残ってしまった。初めて育てる植物の難しさを感じつつ、また秋頃にドングリを拾って再挑戦しようかと思う。

仕事は三月の頭に個展が終了して、さて寝かせてあった短編に戻ろうかと思っていたのだが、思いの外空いた時間が悪い方に働いて久しぶりに手が止まってしまった。二月にいろんな作品を集中して見たりそれと自分のやる仕事とを比較する機会があったことと、ずっと短編に持っていた不安要素がこの短い期間に接触して膨らんだのが原因と思われる。考える時間を与えずに勢いで終わらせる方法も勿論あったが、出来上がりに自分の内面の探求というか、えぐるような切り込みが無い以上、前の作品と変わらないし、どうも意味が先に見えてきてしまい生命力が無いようなものになりそうな予感があったので全く進めるのを拒否してしまった。三月は何もできずに朝を迎える度に嫌な気分になったが、3年ぶりにバリ島に行くことがきっかけになって中旬頃から手が動き始まってきた。 いくつかの映画祭には間に合わない結果になってしまったが、今は無理矢理に完成させなかったことが唯一の救いのような気がしている。もう既にあるアイデアと、向こうでの撮影とスケッチを元に帰国後から仕事が始められそうである。
生きた形態は塑像として見えるためには深い影を必要とする。影が無くては、それは平板な幻影にすぎない
-ユング-


仕事は三月の頭に個展が終了して、さて寝かせてあった短編に戻ろうかと思っていたのだが、思いの外空いた時間が悪い方に働いて久しぶりに手が止まってしまった。二月にいろんな作品を集中して見たりそれと自分のやる仕事とを比較する機会があったことと、ずっと短編に持っていた不安要素がこの短い期間に接触して膨らんだのが原因と思われる。考える時間を与えずに勢いで終わらせる方法も勿論あったが、出来上がりに自分の内面の探求というか、えぐるような切り込みが無い以上、前の作品と変わらないし、どうも意味が先に見えてきてしまい生命力が無いようなものになりそうな予感があったので全く進めるのを拒否してしまった。三月は何もできずに朝を迎える度に嫌な気分になったが、3年ぶりにバリ島に行くことがきっかけになって中旬頃から手が動き始まってきた。 いくつかの映画祭には間に合わない結果になってしまったが、今は無理矢理に完成させなかったことが唯一の救いのような気がしている。もう既にあるアイデアと、向こうでの撮影とスケッチを元に帰国後から仕事が始められそうである。
生きた形態は塑像として見えるためには深い影を必要とする。影が無くては、それは平板な幻影にすぎない
-ユング-

3月12日
2012.03.12
昨日で震災から一年経った。昨日は一日中、震災報道が大きく取り上げられ、そしてまったく一日で終わってしまった。原発問題がほとんど改善ないまま続行中の状態から言って、昨日の報道は日常化しておかしくないはずなのに、ただのイベンティブな一日だったかのように今日はみんな忘れているように感じる。自分で具体的に行動起こしていないだけに説得力はないが、報道に関しても疑問に思うことも多かった。その最たる部分が震災の被害を東北で括っている点。今回の震災は、津波の被害と原発被害は徹底的に分けなければならないはず。東北復興という意味も上記二つでは意味が違う。原発被害者の中にはもう二度と土地に帰れない人も多い。だが賠償金がある。津波の被害者は、土地に戻れる可能性があるが、賠償金は無い。復興と言っても向ける力は大きく違う。それと津波、原発以外の被害があったその他の地域。自分の地元もこれにあたる。実家の屋根瓦は震災から半年以上経ってようやく元に戻ることができた。これでもまだ良い方だ。東京にいると地震があったことが嘘みたいに緊迫感がない。慣れてしまったのか、忘れてしまったのかは分からないが、とにかく自分はその両方にならないように生活している。
先週末にかけて学生の卒業制作展をいくつか回ったが、学生作品の中に震災に影響を受けた作品が少ないことにも驚いた。前もって言えば自分はあえてそれを自分の作品に盛り込むのを避けた。震災当時は復旧が叫ばれていたし、アートやデザインは復興には役立つとしても、復旧には何の役にも立たないと思ったからだ。必要なのは食べ物、雨風しのぐ防寒具だった。そこに映像はいらない。それに自分はアニメーションだから制作にそれなりに時間がかかる。当時制作中のものが完成する頃は震災から少し時間が経った頃になる見通しがあった。だから作品ではなくできるだけの募金をした。これが自分の反応だったわけだが、そんな時期に学生生活を送ったらどんなものが出て来るのか興味があった。が、例えば多摩美のグラフィックデザイン科はあまりに例年通り過ぎる内容に感じた。なんだかクールすぎないかとも思ったが、まぁたしかに全員が震災を扱っていても、それもどこか嘘っぽい気もする。でもなぁと思いながら眺めていたが、やっぱりデザイン系の学科でこれは少し寂しいなと帰り道で思った。彼らはこれから何をデザインしていくんだろう。アバターになりやすいようなイラストや、アプリを彷彿させる時代性は感じたけれど、ただのポスターだったり、どこかで見たことあるイラストを模しただけの作品にはあまり心動かされなかった。その点では多摩美の情報デザインの方が少しは反応していたように思うけれど、こちらも素通りする作品が多かったように思う。自分の作品がもっている時間性と自分のやりたい、みせたいことにギャップがある作品が多かったような感じで落ち着いて見ていられなかった。でも、そんな学生展示は自分が少し忘れていたり、しまいこんでしまったものを少しくすぐられた。それと同時に、自分の作品の中に避けようと思っても避けれなかった震災の影響が見て取れ、また次は避けずに制作をしてみようかというアイデアも浮かんだ。
震災から一年と一日。節目の翌日の方が色々とよく見えてくることも多いと思う。来年の3月12日はどういうことを考えるだろうか。

先週末にかけて学生の卒業制作展をいくつか回ったが、学生作品の中に震災に影響を受けた作品が少ないことにも驚いた。前もって言えば自分はあえてそれを自分の作品に盛り込むのを避けた。震災当時は復旧が叫ばれていたし、アートやデザインは復興には役立つとしても、復旧には何の役にも立たないと思ったからだ。必要なのは食べ物、雨風しのぐ防寒具だった。そこに映像はいらない。それに自分はアニメーションだから制作にそれなりに時間がかかる。当時制作中のものが完成する頃は震災から少し時間が経った頃になる見通しがあった。だから作品ではなくできるだけの募金をした。これが自分の反応だったわけだが、そんな時期に学生生活を送ったらどんなものが出て来るのか興味があった。が、例えば多摩美のグラフィックデザイン科はあまりに例年通り過ぎる内容に感じた。なんだかクールすぎないかとも思ったが、まぁたしかに全員が震災を扱っていても、それもどこか嘘っぽい気もする。でもなぁと思いながら眺めていたが、やっぱりデザイン系の学科でこれは少し寂しいなと帰り道で思った。彼らはこれから何をデザインしていくんだろう。アバターになりやすいようなイラストや、アプリを彷彿させる時代性は感じたけれど、ただのポスターだったり、どこかで見たことあるイラストを模しただけの作品にはあまり心動かされなかった。その点では多摩美の情報デザインの方が少しは反応していたように思うけれど、こちらも素通りする作品が多かったように思う。自分の作品がもっている時間性と自分のやりたい、みせたいことにギャップがある作品が多かったような感じで落ち着いて見ていられなかった。でも、そんな学生展示は自分が少し忘れていたり、しまいこんでしまったものを少しくすぐられた。それと同時に、自分の作品の中に避けようと思っても避けれなかった震災の影響が見て取れ、また次は避けずに制作をしてみようかというアイデアも浮かんだ。
震災から一年と一日。節目の翌日の方が色々とよく見えてくることも多いと思う。来年の3月12日はどういうことを考えるだろうか。

原画、闇とか
2012.02.24
個展とグループ展がスタートして、もうひとつの海外でのグループ展に参加する話の準備をしつつ2月はあまり制作できていない状態で少したるんでいるなと反省しつつ、うちの中を整理していたら何年か前に行ったバリ島の写真が出てきた。それと一緒に昨年暮れに行った広島の写真なんかも見直していたら、いつのまにか闇を比べていた。感覚的ではあるが、バリの闇は粘っこく土のような温かさを感じるのだけれど、日本のそれのうまい形容が見つからず、あの闇は何なんだろうとしばらく考えていたがその時は全く思いつかなかった。

そんなことはすっかり忘れた木曜日にギャラリー移転のため旧作品のピックアップをした後に、渋谷のギャラリー・ルデコへ情報デザインの修了制作展を見に行った。そこで山本渉くんと話をしているうちに、あの闇は森じゃないかという思いがふつふつと浮かんできた。いや樹かもしれない。とにかく樹がもっている深さがあの闇の感覚に似ているような気がした。

また、整理中にもう制作したのが7年前になってしまうが、ash timeという作品の原画がひょっこり出てきてしばらく眺めていた。てっきり木炭紙に描いていたものと思っていたが、A4画用紙に描いていて当時木炭紙を沢山買う金無かったのを思い出した。だが、そこには最近の自分に無い闇の部分があるように感じて大事なものを少し思い出したような気がした。
映像では原画を反転させたものを使用しているので、イメージがだいぶ違う。それとこのash timeの映像、実は自分がアップしたわけではなくどこかの外人さんがアップしたものを自分のHPにも貼付けている。そろそろちゃんと自分でアップし直そうかな。

そんなことはすっかり忘れた木曜日にギャラリー移転のため旧作品のピックアップをした後に、渋谷のギャラリー・ルデコへ情報デザインの修了制作展を見に行った。そこで山本渉くんと話をしているうちに、あの闇は森じゃないかという思いがふつふつと浮かんできた。いや樹かもしれない。とにかく樹がもっている深さがあの闇の感覚に似ているような気がした。

また、整理中にもう制作したのが7年前になってしまうが、ash timeという作品の原画がひょっこり出てきてしばらく眺めていた。てっきり木炭紙に描いていたものと思っていたが、A4画用紙に描いていて当時木炭紙を沢山買う金無かったのを思い出した。だが、そこには最近の自分に無い闇の部分があるように感じて大事なものを少し思い出したような気がした。
映像では原画を反転させたものを使用しているので、イメージがだいぶ違う。それとこのash timeの映像、実は自分がアップしたわけではなくどこかの外人さんがアップしたものを自分のHPにも貼付けている。そろそろちゃんと自分でアップし直そうかな。











